ルクセンブルク

日本からルクセンブルクに移住。GDP世界一のお金持ちの国ルクセンブルクがどんな国なのか,ドイツやフランスなどの周辺国の旅行記事とともにレポートします。

Newsbar橋本2時間スペシャル「キーワードは・・・」

教育がどうあるべきか

 2019年1月1日,abemaTVの「Newsbar橋本」でのやりとりです。
 乙武さんが,もし橋本徹さんが新党を設立するならどんな法案を打ち出すかというテーマに対して「教員免許を廃止する」という案を出しました。
 理由は,「教員免許を取得するためには数多くの単位を取らなくてはいけない。ゆえに参入障壁が高く,教員の価値観(既存のレールに敷かれた人を歩む人しか教員になれない)が固定化する」というものでした。

 個人の意見としては,確かに教員の価値観が固定するのはよくないことと思います。しかし,子どもや家庭は教師を能動的に選択することはできません。したがって,各教員の持つバックグランドによって著しく教育の質が変わってしまうことは,真に教育を受ける権利が担保されているとは思いません。

橋本徹さんのキーワード「個人の選択を最大限尊重する」

 一方で,乙武さんの意見も一理あります。
 これからの社会にとって必要な人材は,均一な人材ではないという点です。
 均一な人材は,高度経済成長期の大量生産大量消費の時代には必要とされましたが,単純労働の大部分がAIに置き換わるこれからの社会にとって,個性がもっと際立った人材が必要です。
 そこで橋本徹さんが言ったのは「個人の選択を最大限尊重する」という野党の主張が重要になるという考え方です。

学校教育は多くのことをやろうとしすぎた

 このTV番組の中ではアシスタントの南雲穂波さんが「体育の授業の習熟度別指導」を法案として掲げました。同じように出演者の堀潤さんが「体育や芸術の分野こそ重要だ」という意見を述べています。
 私が思うに,これほど多様化した現代日本では「これが教育の絶対正解」というやりかたは見つからないと思います。ではどうするか。
 教育内容の抜本的な精選です。

 日本は個人のニーズが多様化しています。
 その中で絶対に欠かせないものは何でしょう?
 そこを仕分けるには,もう少し専門的な具異論が必要に思います。

 一方で,近年の小学校教育で上がってきたような,「プログラミング教育」「英語教育」これらはすべての子どもにとって等しく重要な資質能力か?
 もちろんあったに越したことはない能力です。
 しかし,子ども時代に与えられた時間も,社会が支払えるリソースも限られています、
 「みんなが等しく同じことを同じようにする」必要はないと思うのです。
 それはやれ「道徳教育の教科化」だとか「○○教育の導入」だとか,すべての人に等しく同じようにしようとするから,結果的に最善解が見つからなかったり,それらを指導する教師の労働環境の悪化が叫ばれたりすると思うのです。

思い切って必修を減らす

 私の思う教育改革は「思い切って必修教科を減らす」ことです。
 冒頭の乙武さんの意見は,教育界に多様な人材を取り入れようとすることが1つの目的です。しかし結局教えなければいけないことが限られているのであれば,多様な人材が持つ個性の価値は低くなってしまいます。

 例えば,小学校の低学年であれば,まだまだ個々の能力の差異が小さいので,一律に日本語や算数指導は有効でしょう。

 しかし中学年,高学年と成長していくうえで,この子はアートに,この子は運動に,この子は語学にと,個性による差異が大きくなっていくのが明白です。
 そのときに,各分野のスペシャリストを起用して,アートやスポーツ,語学や科学研究にカスタマイズした教育をしていく。できることだし,やらなければならないことなのではないでしょうか?
 企業力,研究力,スポーツといっても様々な種目があるし,今日本が求められる教育は千差万別です。それに対して等しい,平均的な答えはもはやないように思います。

のび残しの問題

 日本の今の教育は「均質な人材生み出す」この明治とも昭和ともとれるものから脱却できていません。
 それは大学入試で一律の試験問題を下すからなど,さまざまな理由がありますが,日本人はそもそも「他者と違うこと」は苦手です。

 例えば学校教育では,理解の早い子,遅い子の40人が同じ教室で学びます。
 それはその子の良い悪いではありません。個性,生まれた月によって,子どももの理解度は変わります。それが当然なのです。
 それでも日本の現在の教育は全員に等しい力が身につくように望むのです。
 例えば満点が100点だったとして,90点の子と30点の子がいるとします。その平均は60点です。だから教師は平均60点に向けた授業をします。
この授業をするがあまり,90点の子はそれ以上伸びないし,30点の子は結局授業がよくわからないし,双方にとって意味のない時間を過ごしています。つまり90点の子が120点になることがなければ,30点の子が60点になることもありません。これが今の学校教育です。
 例えば全員が習得してほしい能力が身についていないのなら留年を認めるとか.逆に発達が早いのであれば飛び級を認めるとか,弾力的な対応が必要です。

教育に関する「個人の選択を最大化する」とは

 私の思う個人の選択を最大限尊重するとは,究極に現在の教育課程を減らした状態です。
 イメージするなれば,小学校1,2年生は国語算数。
 それ以降は午前中は国語算数などの国民として必要と思われる授業を引き続き行うが,午後はそれぞれの個性に特化した授業を行っていくことです。
 例えばそれが,プログラミングであったり,語学であったり,科学であったり,それは問いません。各自治体に任せてもいいかもしれません。
 足りないところは家庭の努力です。今でさえ,学校の学習ではたりず,塾に行っているのですから同じことです。
 これより,各子どもの特性に応じた教育ができます。
 それで家庭が満足しないのであれば,あとは各家庭の責任に任せるのです。
 例えば卓球の愛ちゃんは幼いころから卓球に特化されているし,有名な科学者の一部はモンテッソーリ教育を受けているのですから。

 とにかく全員が等しく同じことをするのがいけません。
 教育における個人や自治体の権限が,もっと認められていくべきです。