ヨーロッパの美しき日々

GDP世界一のお金持ちの国ルクセンブルクがどんな国なのか,ドイツやフランスなどの周辺国の旅行記事とともにレポートします。

グローバル人材の育成

グローバル=語学ができるの謎方程式


今,海外に住む日本人に日本の教育課程をもとに教育しているわけだが。

海外に日本人の子どもは「グローバル人材」として期待される。
幼い時期に,語学,文化などさまざまな面で日本にいては経験できない体験をしている。

家では,日本語,学校では英語,街に出るとフランス語,みたいな生活を送っている。

私が住んでいるルクセンブルクの子どもは,小学校低学年でルクセンブルク語を習い,中学年でドイツ語を習い,高学年でフランス語を習う。

つまり,教育課程の中でみんなトリリンガルなのだ。

小学校で英語を習うことに大騒ぎな日本

 小学校では,いよいよ英語教育が始まる。
 これには「日本語が十分ではない時期に外国語を強いるべきではない」という批判があった。
 また,それと時同じくして特別の教科道徳,プログラミング教育が始まる。

 いずれも,社会,企業から必要とされたから導入されたわけだが・・・

みんなに教える必要ある?

 例えばルクセンブルクに住む子どもにとって,「3つ言語が話せるけれど,結局使いやすいのは○○語」とか「どれも,自分の本当の気持ちを的確に表すことは難しい」みたいなことが起こる。

 それじゃあまずいだろ。どうするんだ,どうするんだってなって,結局何も決められない日本。

本当に大切なものって,異質を受け入れることなんじゃないの?

 日本って,みんな同じことを習うわけ。
 それでもって「あいつは○○できない」とか「見た目が○○で変わってる」とか言い始まって,いじめにつながる。
 そりゃ,教育課程が「みんな同じようにできるようにする」という,均一な人材を作り上げることに特化したモデルであるから,人より些細に劣っている点を見つけては避難して貶めるわけだ。
 いじめは構造的な問題だし,この「均一な人材育成モデル」からは,世界を渡る人材など出てこない。

人は違っていて当たり前

 日本人は学校で髪の色が違うと大騒ぎするけれど,外に出たら人種が違う,肌の色髪の色が違うのは当たり前。

 日本人は道徳教育で「良いこととはこうである」みたいなモデルを解こうとするけれど,外に出れば宗教やバックグランドが違うのは当たり前。

 単一国家,単一民族,単一教育を施すリスクに気付いているのか?
 人口増加で均一性が力になる時代は終わった。

これからの日本

 こんなこと言ってても変わらないってい思うでしょ。

 でも,日本のこと,諦めたくない。

 日本は社会保障費という名目で,子供の教育費の何倍もの資金を老人に使う国。
 教育費は未来への投資です。
 今のところ,投資する気ないんです。
 いよいよ高齢者が人口の3分の1を超えます。
 みんな既得権を守りたい。
 だから選挙しても,高齢者の既得権を守る候補者しか当選しない。
 生産年齢,子どものことを考えた政治はこのままじゃ行われない。

 僕らにできることは

 今までとは違う。
 みんなと違う。
 セオリーと違う。

 違うことから恐れないこと。
 

違うは価値。