人に必要とされる人
今日はルクセンブルクに住む日本人を対象にしたソフトボール大会がありました。
計7チーム,100人くらいはいたのかな,とっても楽しめました。
人の心遣いを言葉にする
何かするときには,さまざまな立場の人が必要です。
今回でいえばチームを運営する人,この人は試合に出たかなぁとか,試合の展開によって起用する人を変えたり,うまくなじめない人に声をかけたり。
野球・ソフトボールがわかる人は,審判をかって出ていた。3試合ずっと審判は,文句の1つも言っていいと思うけれど,そんなのは一切なし。器の大きさを感じた。
お弁当を作ってくれる人,片づけをする人,試合を盛り上げる人,どの人もソフトボール大会には必要で,それは,任されたものもあれば,自分で見つけたものもある。
人はそんなにたくさん,誰かに何かしてもらっている。
けれど時に,それを忘れて,何かしてしまうことを当たり前だと思ったり,気づけなくなったりする。
与えられることに慣れた日本人
レストランで座れば水が出てくる。
学校に着けば先生が何か教えてくれる。
youtubeを見ればyoutuberが楽しい気持ちにしてくれる。
今の日本人は,あまりに誰かが何かしてくれることに慣れすぎている。
だからこそ,何かしてくれなかったとき,不平不満をもち,やつあたりしたりする。
そういう見苦しい場面を,何度も見る。
そういう人間にはなりたくないし,そういう人と一緒にいるのもご遠慮したい。
与えられる人間になる
価値を与えらる人間になるということは,社会の中で生きていくことで重要だ。
与えられることに慣れてはいけない。
その場その場で,自分ができることを探すクセをつけたい。
例えば,冒頭で述べたように,片づけや準備はいつだって誰だってできる。
誰かの価値を認めれる人間になるという視点も大切である。
あなたがいたおかげで楽しい時間を過ごすことができた。
あなたの作ったお弁当はとてもおいしかった。
あなたの気遣いがとてもうれしい。
ありがとうの言葉に,相手が価値を作ってくれたことに気付いているよ,という言葉をそえる。
自分が頑張ったことに気付いてくれる人,気づくだけでなく評価してくれる人は,「あの人にまた会いたい,一緒に仕事がしたい」と思われる人であるに違いない。